2009年10月31日土曜日
2009年10月25日日曜日
準備2 統合家
構造家・池田昌弘は僕が建築を始めるきっかけのひとつであり、
そしてその後僕が意匠ではなく構造に軸足を置いて動くようなその選択をするきっかけ、
また今の僕のアカデミックなやり方とはあるところかけ離れた思考をしていくきっかけであるとも言える。
彼は2000年ごろから自身を「意匠と構造の接続となるような仕事の人間=統合家」と名乗って活動をしていく。
現在の若手構造家のメディアへの露出、仙台メディアテーク、多くの吉岡賞など、この10年程の日本の建築やメディアの元をたどると非常に高い頻度で彼が登場する。
彼は非常に優秀で、また奇抜で、あるところ異端だった。
知る人によれば「あるときから師匠(佐々木)の影がふっと彼の中から消えた」とか
「彼は日本でセシルをやろうとした」など、さまざまな話が聞ける。
それまで一般に構造家がどのような人間として捉えられていたのかはとりあえずおいておくとして、
彼の活動を眺めているとひとつの仮説にいきあたった。
彼は意匠と構造の中間に立つ人間を育て、また自身もなろうとした。ゆえに彼の事務所の出身者の多くは意匠系出身である。
また彼は不動産を扱うことで自身の建築を自身でセールスしようとした。
彼は今年に入ってから施工会社と構造事務所の提携したような組織(詳しい内状はわからないが)を創り、
そしてこれからmisaという会社名で「空間優先の構造家を育成する」というフレーズと共に、学校としての形態を持ちながら同時に構造設計事務所であるような組織を立ち上げるところだ。
彼の活動を僕は「目に見える職能の拡張」をしようとしているのではないかと仮説を立てた。
施工も、育成も、統合も、彼は自身をあくまでも「構造家」という機軸はまもりながら他との連携を強めようとしているのではないか。
つまりは彼自身は構造家の思考を保持しながら、業務形態としての形を変えていこうとしている。
それに対してあえて今の自分の傾向を定義すれば(もちろん会社をおこしてなどいないけれど)、
「目に見えない職能脳の拡張」をしようとしていると考えられる。
それは「思考そのものが職能の領域から拡張されること」をさし、
例えば建築設計者が経済学者の考えをとりこみ、構造設計では人文学をとりこむような、
本来作業によってある程度固定化される考え方を、思考法そのものから他分野に拡張するによって
着眼や収束点をずらせないかと考えている。
池田昌弘にとっての「統合」が彼の言うとおり「意匠や構造の(業務としての)統合(連携)を強める」ことをさすのであれば、僕にとっての「統合」は「思考方法を分野ごとではなく統合(同時的に、同価値的に)して考えていくこと」であるといえる。
分野、作業としては軸を持ちながら、しかしこの「多視点」とも言える、一見ぶれながらどこかで接続して進行していくような思考の仕方は、おそらくは早くから通常では味わえないような濃い状況(あの事務所)に身をおけたこと、そしてそれからの生活のなかでまざまざと設計という仕事の「多角さ、あるところの不純さ」に衝撃を覚えたためであったからだと感じている。
僕が普段使う、「コンセプトは建たない」はここに立脚している。そしてこの体験からくるのが、前に書いた「総体としての設計」であり、今の設計の方法にあたる。
最初は今のように思考をぶらす(上で言う「拡張」)ことに抵抗を感じていたが、慣れてくるうちにそのぶれ幅のなかで軽やかに、さまざまな評価を与えることができるようになったと今は思う。
そして10代最後の夏に池田さんと刺激的なお茶をしたのはいい思い出として残っている。
準備1.1 多様
多く使われている言葉として上がったので、これについてだけ特記しておく。
***
「多様である」ことを表明することで、あらゆる可能性を網羅して思考されたものであるかのように見えることに僕は警戒している。
多様であることは「多質」と「多種類」の二つの意味を持つと考えている。
多質であるとは非常にいいものから非常に悪いものまで含むことで、
多種類であるとは言葉通りさまざまな異種のものを含むことである。
僕たち設計者は(といっても僕はまだその責任を持てないけれども)、多種類であることは保障しても、多質であることを保証してはいけないのではないか。
言い換えれば誰かしらの使用者、あるいはそこに関係者が発生する分野である以上、「多種類ではあっても良質でなくてはならない」と考えている。
また、前に僕は建物の設計を「さまざまな作業の総体である」と書いたが、多様であるとの表現は本当に多様なのだろうかと疑問を覚えざるを得ない。
本来着実に練りこまれて提示されるべき良質さを放棄しているにもかかわらず、「多様である」と相手のイメージにゆだねてしまうことで、良質であるかのように受け取れてしまうことは、「良質な多様」ではなく、「設計の未収束」としての多様でしかないのではないかと思える。
ゆえに僕は無条件にいいものばかりを含むかのようなイメージを想起させる「多様」という言葉に警戒心を覚えてしまう。
そしてそのように無条件にいいイメージを抱かせないために、この言葉を使わないことにしている。
準備1 言葉
近々今課題で行っていることでの思考をまとめるので、
その前に僕の前提としている諸条件を文章化してまとめておく。
***
言葉はあやしい。
以前にも書いたけれども、話すときに使う言葉、特に伝えたいことがらを
表現するための言葉はしっかりと選んで発したい。
建築には多くの「特殊な言い回し」があるけれども、それらのうち、
流行によって生み出されてきた非日常用語には特に注意をはらっている。
それは「ゆるやか」であったり「多様」であったり「都市」であったり「コンセプト」であったり、そもそも「空間」や「建築」であったりする。
僕は以上の言葉を使わない説明を心がける。
僕は僕が考えた以上のことを考えていない。
当たり前の話だけれど、裏返せば「考えた以上のことを想起させる」ことを望まない。
もちろん実際に作ったものでそれが起こることを否定はしないけれど、
それでも自分がそこまで考えたかのように振る舞いはしない。
それは自分の成果ではなく、建築自体が持つ能力だと考えるから。
ざっくりと言ってしまえば、以上の言葉を言うことで、さも「いいもの作ったんです」風な解釈をされることを拒んでいる。いい例が「~な空間」といえば、建築の、特にアカデミックなところではそれがさも練りこまれたすばらしいものであるかのような聞こえになってしまうけれど、それは僕がつくりあげたイメージではなく、各人が接したメディアや経験に基づいた、その中での印象である。それは多くの人々の総体での成果であって、僕が発明したものじゃない。
また逆に、自分にとっても、何かをイメージさせる言葉で物事を考えてしまうことで、思考がそこに固定されてしまうことを避けたい。文字は考えを集約させていくのに最適だけれど、ときに自分の考えも拘束してしまうすごくも怖いツールだと考えている。
設計はあるところ「当たり前」の積み重ねでできると考えている。
敷地への立ち方も、開口のとり方も、動線のとり方も、細部の収め方も、計画の初段階におかれている(と考えられている)着眼や発見と同じ重要度でそれ以降がある。
そしてそれ以降の重要さを僕は多くの設計に触れたことで知れたから、その一部を特化して説明することに違和感を覚え、それをしない。説明をはじめたら分野やアプローチを飛びながら、とまらなくなる。
ゆえにどこも特化していなく、軸が無いように見える。あるいは細やかな説明によってひとのイメージを跳躍させないところに持ち込んでしまっている。それは気がついていること。
トラックボールマウス使用感
いいよ、なかなか。
操作が少し早くなった気がします。
作業して、タスクバーいって、ツールバーいってみたいな移動が断然早い。
最初は特にドラッグやドロップがやりづらかったけどいまはだいぶなれました。
僕が購入したものはなかなか安いので皆さんもよければお試しを。
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