2009年2月7日土曜日
ディーナー&ディーナー展を見に行く。
最近どうも寝覚めが悪い。
後背筋が今朝から痛い。なぜだろう。
午後オペラシティで行われていたディーナー&ディーナー展を見に行く。
やはりヨーロッパでは増改築のプロジェクトのコンペも多いようで、
古典建築と現代建築がはっきりとした境界を持たず溶け合うように提案されていて非常に楽しかった。
新宿にて食事、ぶらぶらとして帰宅。
宇野求さんの「ストリートスマートな建築」を読み終わったがどうも釈然としない。
時代考察・観察は非常に優れていると感じるがそこからの提案が結局緑化や多様化になっているところがよくわからない。
もう一度読み返してみようと思う。
最近の若手の建築を「新純粋派」という風に表現しているものがあったのでこれももう一度みてみたい。
2009年2月6日金曜日
DETAIL JAPAN休刊
エアーマンが倒せない
これはすごいと思った。
DETAIL JAPANが今月で休刊になるそう。
建築雑誌の中では詳細を収めつつビジュアルもしっかりある、そんなある意味中庸な雑誌だったので、
僕はそれがよくて買っていたのだけれども、その中途半端さが廃刊の原因になったのだろうか。
休刊前最後の号では恩師・米田明と南泰裕さんの対談から始まる。
今回は比較的わかりやすい話口調ですが、ここからいくつか抜粋して考えてみたい。
・地域主義とインターナショナリズムは対立項ではないのではないか
・象徴の貧困
・身近に崇拝するものをみつけて、それに萌える日本人的感覚
・情報化による次元の低減、滑らかなサーフェイスの世界
そういえば今日友人と話をしていて、
比較的日本人は「普通」であることを肯定、重要視するけど、
じゃあ「あなたの洋服、普通だよね」とか「あなたの意見、普通だよね」っていうと彼ら(彼女ら)は怒るのはなぜだ?と。
それは矛盾だ。
2009年2月4日水曜日
先に書くけども
昨日INAX GINZAのギャラリーで内藤さんと佐々木睦朗の対談を読んだのですが、
そこにおいて最近の構造家とかつての構造家の間にある大きな違いはリダンダンシーのちがいなのだと書いていた。
解析技術の発達によって申請者と審査する人間の間に参考にする情報の乖離がうまれ、それは着眼点の違いになった。
それゆえに法規改正は実務側にとって一見不利なようにすすみ、現在にいたる。
今までは「これで安全であろう」という感覚を共有できていたものが、
今は解析技術の発達が人間の判断できる範囲をこえ、
それを判断材料とするために部材は人間の感じるものよりも細くなり、
それが細かい建築を発生させやすくする。
しかしそのエスカレートはつまり人間のわからない範囲でいつの間にか安全値を大幅に下回ることになり、リダンダンシーの低下が起こるということ。
リダンダンシーは建築で言うところ、その意味の中に「部分破壊から全体破壊へのつながり」を含むから、その低下は地震などによる思わぬ部分破壊(例えば基礎の一部分)から全体破壊へつながってしまう恐れがある。特に鉄骨による線材の場合限られた力を支えることしかできないから、その危険性がさらに高い。
では佐々木さんのやってる形態創生理論はどうなのかというと、
あれは自由曲面であるわけだけども、曲面はあらゆる場所が圧縮、引っ張り共に働きうるものだし、もともと複雑な曲面であるから多少壊れてもその力の分布を変えて持ち続けるんだ、とのこと。
そういえば確かにキャンデラのシェルは大胆な切込みをさまざまな場所に入れても50年近く持っているものがほとんどだし、トロハのシェルは第二次世界大戦の砲弾を受けて穴があいても多少ひずみが増える程度であったのだという。
リダンダンシーは一方的に「とりゃいい」というものではないけども、どうしても現在の建築家の意識に「細く、うすく、めだたなく」という意識が発生してしまうのは時代の傾向であるわけで、しかしそれは優先すべき事項なのかという問いをもう一度投げかけるべく、まずは構造家の意識に訴えかける内容であったと思う。
そういえばネルヴィの薄いRC板を使った橋も、実はまだけっこう余裕あるみたい。
彼いわく「装飾を施す必要がないのは真に美しさを知る意識を対象としているからであり、そこにおいて構造はその意識が感じえる最小限である」とのこと。
意識が感じる最小限>構造的最小限ってことですね。
2009年2月1日日曜日
白い犬とそしてワルツと。
起床後テストの勉強。
クノールのコーンスープはすばらしい。
午後から塾で授業、その後中学受験に向かう小学生の激励会。
これは中学受験の最高の状態だな、
もう去年と生徒の顔が違う。
これが勉強がつくる人間の顔か、と思う。
終了後池袋で友人と会食。
彼はなかなかいいやつだった。
生き方が僕とまったく違うと言う点で魅力的だと感じた。
明日は中学受験の校門激励に向かうので朝はやい。
早めに家をでてチョコを買わなくてはいけない。
カイロは渡すべきじゃないな。もう校門で渡してもしょうがないから。
自分が小学生のとき、受験会場でコートの内側に
えんぴつやら消しゴムやらチョコやらチュッパチャップスやらを
露出凶のようにンバーっともっていた先生がいたのを思い出した。
校門でなにやら渡すのは、
親が子供への心配を、その分だけみかんや大根や洋服やらダンボールに詰め込んで送るのに近い気がする。
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