2009年2月4日水曜日

先に書くけども


昨日INAX GINZAのギャラリーで内藤さんと佐々木睦朗の対談を読んだのですが、
そこにおいて最近の構造家とかつての構造家の間にある大きな違いはリダンダンシーのちがいなのだと書いていた。

解析技術の発達によって申請者と審査する人間の間に参考にする情報の乖離がうまれ、それは着眼点の違いになった。
それゆえに法規改正は実務側にとって一見不利なようにすすみ、現在にいたる。

今までは「これで安全であろう」という感覚を共有できていたものが、
今は解析技術の発達が人間の判断できる範囲をこえ、
それを判断材料とするために部材は人間の感じるものよりも細くなり、
それが細かい建築を発生させやすくする。

しかしそのエスカレートはつまり人間のわからない範囲でいつの間にか安全値を大幅に下回ることになり、リダンダンシーの低下が起こるということ。

リダンダンシーは建築で言うところ、その意味の中に「部分破壊から全体破壊へのつながり」を含むから、その低下は地震などによる思わぬ部分破壊(例えば基礎の一部分)から全体破壊へつながってしまう恐れがある。特に鉄骨による線材の場合限られた力を支えることしかできないから、その危険性がさらに高い。

では佐々木さんのやってる形態創生理論はどうなのかというと、
あれは自由曲面であるわけだけども、曲面はあらゆる場所が圧縮、引っ張り共に働きうるものだし、もともと複雑な曲面であるから多少壊れてもその力の分布を変えて持ち続けるんだ、とのこと。
そういえば確かにキャンデラのシェルは大胆な切込みをさまざまな場所に入れても50年近く持っているものがほとんどだし、トロハのシェルは第二次世界大戦の砲弾を受けて穴があいても多少ひずみが増える程度であったのだという。

リダンダンシーは一方的に「とりゃいい」というものではないけども、どうしても現在の建築家の意識に「細く、うすく、めだたなく」という意識が発生してしまうのは時代の傾向であるわけで、しかしそれは優先すべき事項なのかという問いをもう一度投げかけるべく、まずは構造家の意識に訴えかける内容であったと思う。

そういえばネルヴィの薄いRC板を使った橋も、実はまだけっこう余裕あるみたい。
彼いわく「装飾を施す必要がないのは真に美しさを知る意識を対象としているからであり、そこにおいて構造はその意識が感じえる最小限である」とのこと。
意識が感じる最小限>構造的最小限ってことですね。

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