2011年5月14日土曜日

3.11

今週、3.11後初の授業が行われ、予想通り「3.11について考えるところ」を一人一人述べるように言われる。

僕は、以下のように答えた。
「僕は、法規も基準も、いつだってなにかは足りないものだと考えています。規定は本来的に経験学と同じく、過去にあった出来事の再発を想定してつくられると考えるからです。おそらく、今回の震災とその被害によって、建築だけでなく、土木や自治体の指針にも変化があると思います。ただ、具体的な技術論として、どうなるかを示すには、僕にはまだそのための目がない、だからわからない。
一方で、東京に住むもののリアリティとして言えるのは、僕たちが今後考えなければならないのは帰宅困難者、災害用備蓄、天井落下、高層ビルのエレベーター、地下埋設物などに関する計画の根本であり、被災地にカーテンをかけにいくとか、毛布をためておくようにしようとか、そういう即物的な対応にはないと考えています。」



僕は今回の震災における被害は、技術的問題によって起きたのではなく、様々な分野の「計画学」の不完全さによって起こったのだと考えている。
それは想定する出来事が過小評価であったり、出来事への対処方法が誤っていたりしたことによる。ここで「計画学」とは「前提・想定・対処」などと置き換えることができる。

そう考えるのは、たとえば構造系の話にかぎっていえば、今回の地震波をさっそくスペクトル解析してみれば、それが基準法で定められたスペクトルに実にうまい具合にのっていることを確認できる。

その時、「そうか、これは地震が特殊なのではない。想定されていたような地震波なのだから、これは技術ではなく、計画学に問題があるのだ」という考えに至ることができる。

しかしこのような考え(専門的知見から建築学全体を見る)に至る人間が、はたしてどれほどにいるのか。
自分の専門的思考によってはいまいか。
自分を自分の分野で固定してはいまいか。


つまり今回、僕たちが示さなければならないのは、一に「かくあるべし」という規定や想定の根本を改善することであり、それに付与される物理的対策はその前提が定められたあとに進められる手段でしかない。

技術も手法も、それは「ただの技術、ただの手法」でしかない。
それを建築学に転換できて、初めてその技術や手法が存在する意味がある。

恥ずかしいほどに自明のことを言えば、地震工学を考えれば、そのそもそもは人命を守るためにあるのであって、ただ解析してそれを分析することが目的ではないのだ。


各個人の専門性はその人物の独自性だが、本質的に重要な事柄(=目標)は世間と共有できる地点にあると、僕は思う。