僕、非常にアニメをみます。
美術品としての動画という感じでみています。
今日は「るろうに剣心 星霜編」を観た。
原作ではちょうどハッピーなところで終わるのですが、
このOVAでは原作から十数年後、剣心と薫、二人の最期までが描かれています。
原作のストーリーを軸に、コミカライズされた部分は徹底的に取り除き、
剣心は技名を言わない、キャラクターの心情を説明しないなど、徹底的にリアリズムにこだわっているようです。
僕にとってアニメで重要なのは映像美。そして言葉の選択。
以下はおすすめのアニメたちです。
どれも絵が美しく、個性的で、ストーリーが深く練りこまれたものばかりです。
ミチコとハッチン(2009)
メキシコのお話。バラガンカラー。 イケイケなママとつんけんした娘のお話。
キャシャーンSins(2009)
1973年に放映された「新造人間キャシャーン」を、タツノコプロ30周年企画として発表されたもの。
ストーリーは前作の続編だが、表現によって世界観が大きく変化しているため、これから見始めても本当に楽しめる。
忘年のザムド(2008)
bonesによるwebアニメ。独特なザムドのデザインと、人間の心情が巧みに表現される。
交響詩篇 エウレカセブン(2005)
同じくbonesによるテレビアニメ。一部間延びするが、レントンの成長は見ていてうれしい。
ストレンヂア無皇刃譚(2007)
アニメ映画。I山修武氏に激似の人が敵役にでてくる。
ほかにもロボットものは必ず押さえるようにしているのですが、メカニックが非常に面白いものもあったりしますが、それは今は控えます。
2011年5月22日日曜日
エディプス・コンプレックスについて
昨日久しぶりに父と二人で食事をした。
その帰り道、自分の中に未だに存在する「エディプス・コンプレックス」あるいは「ファザー・コンプレックス」を自覚する。
それについてテキストをまとめた。
そのすべてを公開はしないが、結びはこうなる。
「いずれにせよこのコンプレックスの克服の時は、私にはまだほど遠いだろう。
なぜならまだ父が存命であること、私が何もなしていないこともそうだが、常に我々は先生・師匠・先輩を超えられない。それは幼いときに見た姿は、私の成長とともに拡張されて、常に私よりも大きいものであるから。
その経験を、私はすでにしている。」
エディプス・コンプレックスや、ファーザーズ・コンプレックスを「先人への対抗意識」として肯定し、しかしその目標を抱いた瞬間、越えられない壁を築いたことに等しい。
2011年5月14日土曜日
3.11
今週、3.11後初の授業が行われ、予想通り「3.11について考えるところ」を一人一人述べるように言われる。
僕は、以下のように答えた。
「僕は、法規も基準も、いつだってなにかは足りないものだと考えています。規定は本来的に経験学と同じく、過去にあった出来事の再発を想定してつくられると考えるからです。おそらく、今回の震災とその被害によって、建築だけでなく、土木や自治体の指針にも変化があると思います。ただ、具体的な技術論として、どうなるかを示すには、僕にはまだそのための目がない、だからわからない。
一方で、東京に住むもののリアリティとして言えるのは、僕たちが今後考えなければならないのは帰宅困難者、災害用備蓄、天井落下、高層ビルのエレベーター、地下埋設物などに関する計画の根本であり、被災地にカーテンをかけにいくとか、毛布をためておくようにしようとか、そういう即物的な対応にはないと考えています。」
僕は今回の震災における被害は、技術的問題によって起きたのではなく、様々な分野の「計画学」の不完全さによって起こったのだと考えている。
それは想定する出来事が過小評価であったり、出来事への対処方法が誤っていたりしたことによる。ここで「計画学」とは「前提・想定・対処」などと置き換えることができる。
そう考えるのは、たとえば構造系の話にかぎっていえば、今回の地震波をさっそくスペクトル解析してみれば、それが基準法で定められたスペクトルに実にうまい具合にのっていることを確認できる。
つまり今回、僕たちが示さなければならないのは、一に「かくあるべし」という規定や想定の根本を改善することであり、それに付与される物理的対策はその前提が定められたあとに進められる手段でしかない。
技術も手法も、それは「ただの技術、ただの手法」でしかない。
それを建築学に転換できて、初めてその技術や手法が存在する意味がある。
恥ずかしいほどに自明のことを言えば、地震工学を考えれば、そのそもそもは人命を守るためにあるのであって、ただ解析してそれを分析することが目的ではないのだ。
各個人の専門性はその人物の独自性だが、本質的に重要な事柄(=目標)は世間と共有できる地点にあると、僕は思う。
僕は、以下のように答えた。
「僕は、法規も基準も、いつだってなにかは足りないものだと考えています。規定は本来的に経験学と同じく、過去にあった出来事の再発を想定してつくられると考えるからです。おそらく、今回の震災とその被害によって、建築だけでなく、土木や自治体の指針にも変化があると思います。ただ、具体的な技術論として、どうなるかを示すには、僕にはまだそのための目がない、だからわからない。
一方で、東京に住むもののリアリティとして言えるのは、僕たちが今後考えなければならないのは帰宅困難者、災害用備蓄、天井落下、高層ビルのエレベーター、地下埋設物などに関する計画の根本であり、被災地にカーテンをかけにいくとか、毛布をためておくようにしようとか、そういう即物的な対応にはないと考えています。」
僕は今回の震災における被害は、技術的問題によって起きたのではなく、様々な分野の「計画学」の不完全さによって起こったのだと考えている。
それは想定する出来事が過小評価であったり、出来事への対処方法が誤っていたりしたことによる。ここで「計画学」とは「前提・想定・対処」などと置き換えることができる。
そう考えるのは、たとえば構造系の話にかぎっていえば、今回の地震波をさっそくスペクトル解析してみれば、それが基準法で定められたスペクトルに実にうまい具合にのっていることを確認できる。
その時、「そうか、これは地震が特殊なのではない。想定されていたような地震波なのだから、これは技術ではなく、計画学に問題があるのだ」という考えに至ることができる。
しかしこのような考え(専門的知見から建築学全体を見る)に至る人間が、はたしてどれほどにいるのか。
自分の専門的思考によってはいまいか。
自分を自分の分野で固定してはいまいか。
自分の専門的思考によってはいまいか。
自分を自分の分野で固定してはいまいか。
つまり今回、僕たちが示さなければならないのは、一に「かくあるべし」という規定や想定の根本を改善することであり、それに付与される物理的対策はその前提が定められたあとに進められる手段でしかない。
技術も手法も、それは「ただの技術、ただの手法」でしかない。
それを建築学に転換できて、初めてその技術や手法が存在する意味がある。
恥ずかしいほどに自明のことを言えば、地震工学を考えれば、そのそもそもは人命を守るためにあるのであって、ただ解析してそれを分析することが目的ではないのだ。
各個人の専門性はその人物の独自性だが、本質的に重要な事柄(=目標)は世間と共有できる地点にあると、僕は思う。
2010年8月17日火曜日
2010年5月29日土曜日
eig = 固有値の算出
近々見たい映画がバスバス公開されます。
告白
松たかこが爆破とかします。
http://kokuhaku-shimasu.jp/index.html
セックスアンドザシティⅡ
婦人たちの素敵な友情のものがたり
http://wwws.warnerbros.co.jp/sexandthecity2/
これは行かねばなるまい。
バトル・ロワイアルも3Dで再上映されるようです。
あれはエンターテイメントとして面白い映画だった。
告白
松たかこが爆破とかします。
http://kokuhaku-shimasu.jp/index.html
セックスアンドザシティⅡ
婦人たちの素敵な友情のものがたり
http://wwws.warnerbros.co.jp/sexandthecity2/
これは行かねばなるまい。
バトル・ロワイアルも3Dで再上映されるようです。
あれはエンターテイメントとして面白い映画だった。
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